東京オリンピック(1964)当時、東京で阪神ファンの小学生はいじめられた。

公開日: : 最終更新日:2017/10/09 自己紹介

東京オリンピック(1964)があった年に、阪神がセリーグ優勝した。
当時国内は、オリンピック一色で、今のように注目された優勝ではなかったように思う。
なお、あの時は誰も想像しなかったと思うが、阪神が次に優勝したのは21年後、1985年である。

 

 

 

それでも、東京のデパートに「阪神タイガース」のTHの野球帽が売っていた。
それ以前も、それ以後もしばらく、東京では読売ジャイアンツの帽子しか売っていなかったように思う。
当時、今のように高級のイメージでもなく、多くの人が住みたい街でもなかった吉祥寺に、
「パープルセンター」というデパートがあった。
僕の、多くの人の当時のイメージは、「新宿からかなり離れた郊外」が妥当だと思う。
その後、このパープルセンターの跡地に、「東急デパート吉祥寺店」ができる。

小学校2年の僕は、親父の休みの日に、パープルセンターの屋上のゲームセンターに連れて行ってもらうのが楽しみだった。
このパープルセンターに、阪神優勝記念コーナー、のような意味合いで、阪神の帽子が売っていたのだと思う。
関西出身(といっても広島)の親父は、あまり抵抗がなく、珍しいから、と僕に阪神タイガースの帽子を買ってくれた。

 

 

僕はクラスで誰も持ってない阪神タイガースの帽子がうれしくて、毎日学校にかぶっていった。
僕以外は全員巨人の帽子である。

僕の通っていた関町小学校に、「関町タイガース」という少年野球チームがあった。
結構強かった。
巨人のショート・黒江透修の子供が関町小学校に通っていた。
僕よりは2,3年上だったと思う。
彼は、帽子だけでなく、洋服も巨人のユニフォームで学校に来ていたと思う。
もちろん、関町タイガースの主要メンバー。
関町タイガースの監督が、黒江透修のカバン持ちのような人で、
黒江君が実質監督のようなチームだったように思う。

黒江透修は創価学会に入っていて、人の名前を付けるのが好きだったと記憶している。
「関町タイガース」の監督の子供も黒江透修が名前を付けたように記憶している。

僕は、帽子こそ野球帽かぶっていたが、野球は全く興味がなかった。
運動神経も鈍く、川村君という植木等の甥っ子が同学年にいて、
彼とチャらけているのが好きだった。

関町タイガースは、ほぼ毎週試合をする。
関町小学校で試合をするときは、
誰もやり手がいない敗戦時のキャッチャー、をやるように、
小学校の前の家だった僕の家に数人で押しかけてきて誘いに来る。

相手は大人(監督)とか先輩(黒江の息子)なんで、
断るわけにもいかず、しぶしぶ試合に出た。

もちろん、道具もなく、ユニフォームもなく(僕だけ私服)
10対0、的な試合の後半だけキャッチャーやるわけで、
なんか、見せしめ、にされているような気分だった。

こんなことが、1年くらい続いただろうか。
東京オリンピックの年の思い出、というと、
関町タイガースの補欠のキャッチャーとリンクして、
あれは阪神の帽子かぶってたからかな、といまだに思っている。

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